2027年NHK大河ドラマ『逆賊の幕臣』のモデルは、横須賀製鉄所の建設を推進し、1868年に新政府軍によって処刑された実在の幕臣・小栗忠順です。
主演は松坂桃李、脚本は安達奈緒子。2026年10月9日には中村倫也、寛一郎、斎藤工、西岡德馬の出演も発表され、幕末の薩摩・長州を描く配役が明らかになりました。
なぜ日本の近代化に尽くした小栗忠順は「逆賊」とされたのでしょうか。彼が残した功績、処刑の真相、勝海舟との違いを史実から読み解き、ドラマの見どころまで詳しく解説します。
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『逆賊の幕臣』のモデルは小栗忠順!実在した幕臣の生涯とは?
『逆賊の幕臣』の主人公・小栗忠順(おぐり・ただまさ)は、1827年に生まれ、1868年5月27日に処刑された江戸幕府の旗本です。
小栗上野介(おぐりこうずけのすけ)という呼び名でも知られ、外国奉行や勘定奉行などを歴任しました。
2027年は小栗忠順の生誕200年にあたります。NHKが彼を大河ドラマの主人公に選んだことで、明治維新を「幕府側の視点」から見直す物語に注目が集まっています。
小栗忠順とは何者?名前・役職・生涯を整理
小栗忠順は、文政10年(1827年)、江戸の旗本・小栗家に生まれました。
父は新潟奉行を務めた小栗忠高。祖父の中川忠英も勘定奉行を務めており、小栗は幕府の行政に関わる家系で育ちます。
1855年に父の死去を受けて家督を継ぎ、1857年には御使番、1859年には目付へと進みました。
目付は幕府の役人を監察する職務です。小栗は若い時期から、幕政に関わる経験を積んでいたことになります。
その後、外国奉行、勘定奉行、江戸町奉行、軍艦奉行、陸軍奉行などの要職を歴任しました。
項目 内容
名前 小栗忠順(おぐり・ただまさ)
通称・別称 小栗上野介、又一など
生年 1827年(文政10年)
没年月日 1868年5月27日
没年齢 満41歳、数え年42歳
身分 江戸幕府の旗本
主な役職 外国奉行、勘定奉行、軍艦奉行、陸軍奉行など
主な功績 遣米使節への参加、横須賀製鉄所建設、関税交渉、軍制改革
最期の地 現在の群馬県高崎市倉渕町付近
ドラマの主演 松坂桃李
小栗の基本的な経歴は、国立国会図書館が公開する人物資料「近代日本人の肖像」の「小栗忠順」で確認できます。
なお、同資料には別称として「豊後介」も記載されています。一方、小栗家ゆかりの普門院には官途名を「豊後守」とする記述があり、表記は資料ごとに慎重な確認が必要です。
官途名とは、武士が名乗った官職に由来する名称のことです。
本記事では呼称の混乱を避け、原則として「小栗忠順」、必要に応じて「小栗上野介」と表記します。
僕がこの人物に興味を引かれるのは、単に多くの役職に就いていたからではありません。
外国との外交、幕府の財政、軍備の整備まで、近代国家に必要な仕事を幅広く担っていたことです。
幕末の武士と聞けば、どうしても刀を手にした姿を思い浮かべます。
けれど、小栗忠順が未来へ残したものは、戦場での武功よりも、制度や産業を築くための仕事だったのです。
小栗忠順の人生を年表で確認
小栗の人生は、幕府の政治的な危機が深まっていく過程と重なっています。
特に重要なのが、1860年のアメリカ渡航から1868年の処刑までの約8年間です。
年 主な出来事
1827年 江戸の旗本・小栗家に生まれる
1855年 小栗家の家督を相続
1857年 御使番に就任
1859年 目付に就任
1860年 遣米使節の一員としてアメリカへ渡航
1860年代 外国奉行・勘定奉行などを歴任
1865年 横須賀製鉄所の建設を推進
1868年 鳥羽・伏見の戦い後、抗戦を主張して罷免される
1868年 上州権田村へ退く
1868年5月27日 新政府側によって処刑される
1860年にアメリカへ渡った小栗は、そこで日本とは異なる産業技術や社会の仕組みに触れました。
帰国後は幕府の財政や軍備を支え、1865年には横須賀製鉄所の建設を本格化させています。
しかし、そのわずか3年後に幕府は崩壊し、小栗自身も命を落としました。
未来をつくろうとした人物が、その未来を見届けることなく亡くなった。
僕の胸に残るのは、この時間の短さです。
完成した建物や制度には、それを生み出した人間が最後まで立ち会えるとは限りません。
小栗の生涯は、そんな歴史の厳しさを静かに物語っています。
2027年大河ドラマに小栗忠順が選ばれた意味
NHKは2025年3月3日、2027年の大河ドラマ第66作を『逆賊の幕臣』とし、松坂桃李が小栗忠順を演じることを発表しました。
脚本を担当するのは、『透明なゆりかご』『おかえりモネ』『きのう何食べた?』などで知られる安達奈緒子です。
幕末のドラマでは、倒幕を進めた志士や、明治という新しい時代を切り開いた人物が注目されることがあります。
ところが、小栗は江戸幕府の内部から改革を進めた人物です。
新しい技術を取り入れようとしながら、政治的には徳川幕府を支え続けました。
ここが『逆賊の幕臣』の重要な特徴だと僕は考えます。
明治維新を、古い幕府と新しい政府の単純な対決として描くのではなく、幕府の内部にも未来を構想した人々がいたことを示せるからです。
歴史の結末を知っている僕たちは、つい勝った側の行動に合理性を見いだしてしまいます。
しかし、当時の人々にとって、明治政府の成立は最初から決まっていた未来ではありませんでした。
小栗忠順を主人公にすることは、その不確かな時代をもう一度生き直すことなのかもしれません。

小栗忠順の功績は何?遣米使節と横須賀製鉄所の史実
小栗忠順の代表的な功績は、1860年の遣米使節への参加、1865年に起工した横須賀製鉄所の建設推進、幕府財政・軍制の改革です。
なかでも横須賀製鉄所は、幕府の崩壊後も明治政府へ引き継がれ、日本の造船技術と産業基盤を支える施設へ発展しました。
1860年の遣米使節でアメリカへ渡った
1858年、日本とアメリカの間で日米修好通商条約が締結されました。
幕府は条約の批准書を交換するため、1860年にアメリカへ使節団を派遣します。
小栗忠順は目付として、この遣米使節に参加しました。
使節団は太平洋を渡り、アメリカの都市や工業施設などを訪問します。
当時の日本では、開国によって外国との外交や貿易が本格化していました。
一方、欧米諸国との技術力や軍事力の差も明らかになりつつありました。
小栗にとって渡米は、外国の文化に触れるだけの旅ではありません。
日本が国際社会で生きていくため、何を整える必要があるのかを考える機会だったといえます。
特に、通貨の交換比率をめぐる問題は、開国後の日本にとって重要な課題でした。
国内と海外で金銀の価値の比率が異なれば、貿易や通貨の流通にも影響します。
小栗はこうした問題にも関心を持ち、帰国後は財政や通商に関わる幕政の中枢で活動しました。
僕は、この渡米経験が小栗の人生を理解する一つの転換点だと感じます。
外国の強さを知ったとき、幕府を捨てるのではなく、幕府の中から国を変えようとした。
その選択には、改革者としての合理性と、幕臣としての忠誠が重なっていました。
横須賀製鉄所は1865年11月15日に起工した
小栗忠順が進めた事業のなかで、最も分かりやすく形として残ったものが横須賀製鉄所です。
横須賀市の公式資料「横須賀の誇り!横須賀製鉄所(造船所)」によると、慶応元年(1865年)11月15日に起工式が行われました。
名前に「製鉄所」とありますが、現代の製鉄工場と同じ意味ではありません。
当時の横須賀製鉄所は、軍艦の建造や修理に必要な設備を備える、近代的な造船施設として計画されました。
造船台、機械設備、ドライドックなどを整え、日本国内で船の建造や修理を行える体制をつくることが目的でした。
ドライドックとは、船を入れて水を抜き、船底などの修理を行う施設です。
当時、日本が外国から軍艦を購入できたとしても、その船を国内で修理できなければ、維持管理を外国の技術に頼ることになります。
小栗が目指したのは、軍艦を手に入れることだけではありません。
軍艦を維持し、修理し、将来は自国で造れる産業基盤を築くことでした。
この違いは重要です。
完成品を外国から購入するだけなら、購入のたびに外国の技術へ依存することになります。
しかし、造船施設や技術者を育てる仕組みを国内に整えれば、そこで身についた技術を次の事業にも活用できます。
僕は、横須賀製鉄所の建設には、目の前の軍事力だけでなく、将来の技術的な自立を見据えた発想があったと考えています。
フランス人技師ヴェルニーとの協力
横須賀製鉄所の建設を支えた重要人物が、フランス人技師フランソワ・レオンス・ヴェルニーです。
小栗が幕府側で建設計画を推進する一方、ヴェルニーは技術的な計画や設備の整備に大きな役割を果たしました。
横須賀市の資料によれば、ヴェルニーは横須賀港の条件を調べ、造船台やドライドックなどの建設計画を立てています。
さらに、技術者や機械類を確保するため、一時フランスへ帰国しました。
彼の不在中に幕府は起工式を行い、その後、再来日したヴェルニーらの協力によって工事が進められました。
つまり、横須賀製鉄所は小栗一人が完成させた施設ではありません。
幕府の政策判断、フランスの技術協力、現場で働く人々の仕事が結びついて実現した事業です。
この協力関係を理解すると、小栗の功績をより正確に評価できます。
彼が重要だったのは、すべての技術を自分で持っていたからではなく、必要な技術と人材を集め、国家的な事業として進めようとしたことです。
現在も横須賀市では、小栗とヴェルニーの功績をたたえる式典が行われています。
一人の幕臣が進めた仕事が、時代を超えて地域の歴史に残っているのです。

幕府から明治政府へ引き継がれた理由
横須賀製鉄所の歴史で特に重要なのは、1868年に幕府が崩壊した後も建設が続けられたことです。
横須賀市の施設史によると、明治4年(1871年)には第1号ドックが完成し、同年に横須賀製鉄所から横須賀造船所へ名称が変わりました。
さらに、1871年11月には明治天皇が横須賀造船所を訪問しています。
ここで一つの疑問が浮かびます。
なぜ明治政府は、倒した幕府が進めていた事業を継続したのでしょうか。
僕は、その理由を行政・技術・財政という三つの側面から考えています。
第一に、造船施設の必要性は政権が変わってもなくならなかったことです。
海に囲まれた日本にとって、船を修理し、運用する能力は重要でした。幕府であっても明治政府であっても、その必要性は変わりません。
第二に、建設を通じて集められた設備や技術者を、簡単に代替できなかったことです。
大規模な産業施設は、建物があれば動くものではありません。機械を扱う技術、作業の手順、人材の経験があって初めて機能します。
第三に、すでに進んでいた建設事業を中断することには、経済的な損失が伴うことです。
ただし、当時の政府内で具体的にどのような議論が行われたかは、個別の行政記録を確認する必要があります。
ここで述べた三つは、施設の継承という事実から考えられる合理的な背景です。
それでも、小栗の事業が新政府に引き継がれたこと自体は、はっきりした歴史的事実です。
さらに文化遺産オンラインで紹介されている「横須賀製鉄所製れんが」の解説では、製鉄所で作られたれんがが観音埼灯台などにも用いられたことが確認できます。
横須賀製鉄所は、造船という一つの目的を超えて、関連する工業技術の発展にもつながっていました。
小栗が残したのは、一つの建物ではなく、別の仕事を生み出すための土台だったのです。
関税交渉と軍制改革にも関わった
国立国会図書館の「近代日本人の肖像」では、小栗の主な業績として関税率改訂交渉や軍制改革も挙げられています。
幕末の日本にとって、外国との通商は外交問題であると同時に、財政問題でもありました。
関税率が変われば輸入品の価格や政府の税収に影響し、国内の産業にも関わります。
1866年には、欧米諸国との間で改税約書が結ばれ、輸入関税の税率体系が変更されました。
ただし、この条約の成立を小栗一人の成果として扱うことは適切ではありません。
関税をめぐる交渉は複数の幕府役人や外国側の代表者が関わったものであり、個々の交渉過程については当時の外交文書に即した検証が必要です。
小栗が担ったのは、厳しい国際関係と幕府財政のなかで、通商・財政政策に関わる重要な役割でした。
また、軍艦奉行や陸軍奉行として軍事制度の改革にも携わっています。
軍備を近代化するには、新しい装備だけでなく、訓練、組織、予算を整えなければなりません。
外交、財政、軍事、産業。
一見すると別々の仕事ですが、国を維持するという目的では深く結びついています。
『逆賊の幕臣』がこれらの仕事を丁寧に描けば、これまでの幕末ドラマとは違う緊張感が生まれるのではないでしょうか。
刀で歴史を動かすのではなく、数字と制度と交渉で国の未来を変えようとする。
その姿にこそ、小栗忠順という人物の新しさを感じます。
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31日間0円で、今夜観たい1本を探す小栗忠順はなぜ逆賊とされた?処刑の理由と史実
小栗忠順が処刑された背景には、1868年の戊辰戦争で新政府軍への抗戦を主張したことと、権田村へ退いた後も反乱の危険があると疑われたことがあります。
ただし、「逆賊」はドラマのタイトルでも使われる政治的・物語的な表現であり、小栗に対して正式な法的認定が行われたことを示すものではありません。
何が実際に起きたのかを理解するには、幕府内での抗戦論、権田村での嫌疑、捕縛と処刑の命令系統を分けて見る必要があります。
鳥羽・伏見の戦い後に抗戦を主張した
慶応4年(1868年)1月、旧幕府軍と薩摩・長州藩を中心とする新政府側の軍勢が、鳥羽・伏見で衝突しました。
旧幕府軍は敗北し、徳川慶喜は厳しい政治的判断を迫られます。
幕府の内部では、新政府に恭順するべきか、軍事的な抵抗を続けるべきかという意見の対立がありました。
小栗忠順は、このとき抗戦を主張した人物として知られています。
しかし、徳川慶喜は恭順へと方針を転換し、小栗の主張は採用されませんでした。
小栗は旧暦の慶応4年正月に役職を罷免されます。
ここで重要なのは、小栗の抗戦論を、単純に戦争を望んだ行動と決めつけないことです。
幕府には軍事力が残っており、抵抗によって政治的な条件を変えられる可能性を考える立場もありました。
一方、戦闘が続けば、江戸を含む各地で被害が拡大する危険もありました。
どちらの道にも大きな代償があったのです。
小栗の判断が妥当だったかどうかは、当時の兵力、補給、外交環境などを総合的に検討しなければ評価できません。
僕は、結果として敗れたからという理由だけで、彼の判断を無意味だったと切り捨てるべきではないと考えています。
当時の人間は、歴史の結末が書かれた教科書を持っていなかったからです。
上州権田村で何が起きた?反乱の嫌疑と捕縛
罷免された小栗忠順は、所領のある上野国群馬郡権田村へ退きました。
現在の群馬県高崎市倉渕町権田にあたる地域です。
政治の中心から離れた小栗でしたが、新政府側からの警戒がなくなったわけではありません。
館林市が2026年5月28日に更新した公式解説「小栗上野介忠順と館林」では、捕縛までの経緯が紹介されています。
それによると、小栗が権田村の観音山で屋敷を建て始めたことを、東山道総督府が不穏な行動と判断しました。
そして総督府は、高崎藩に小栗の逮捕を命じます。
小栗には農兵を養成し、反乱を企てているという疑いも向けられていました。
しかし、屋敷を建てる行動と、武装蜂起を具体的に準備したことは同じではありません。
屋敷の建設が確認できたとしても、それだけで反乱計画が証明されたとはいえないのです。
ここは史実を読むうえで、慎重でなければならない部分です。
旧幕府の有力者であり、かつて抗戦を主張していたことは、新政府側が小栗を警戒する理由になったと考えられます。
しかし、警戒すべき人物と判断することと、処刑に値する行動を実際に行ったと立証することは別の問題です。
僕は、この違いを理解することが、『逆賊の幕臣』というタイトルを考える出発点になると思います。

小栗忠順はいつ、誰の命令で処刑された?
小栗忠順が処刑されたのは、慶応4年閏4月6日です。
西暦の新暦に換算すると、1868年5月27日にあたります。
幕末の出来事を調べる際には、この旧暦と新暦の違いに注意が必要です。
館林市の公式解説によると、小栗は三ノ倉の河原で家臣4人とともに斬首されました。
また、養嗣子の小栗又一(忠道)も別途高崎で処刑されています。
小栗の捕縛については、東山道総督府が高崎藩へ命令した経緯が確認できます。
ただし、逮捕命令と処刑命令は同じものではありません。
捕縛を命じた組織、処刑に関する判断、実際に執行した人々については、それぞれ史料を確認して区別する必要があります。
館林市の説明では、処刑後に小栗父子の首が館林城へ運ばれ、東山道総督の岩倉具定による首実検が行われたことも紹介されています。
しかし、首実検を行ったことから、岩倉具定個人が処刑のすべてを独断で決定したと断定することはできません。
処刑の詳細な決裁過程や当時の審理の実態についても、確認できる史料の範囲を超えて推測すべきではないでしょう。
この事件を整理すると、確実性の異なる三つの情報があります。
- 確認できる事実: 小栗は抗戦を主張して罷免され、権田村へ退いた後に捕縛され、1868年5月27日に処刑された。
- 当時の嫌疑: 屋敷の建設や農兵の養成などを、新政府側が反乱につながる不穏な行動と見なした。
- 断定できないこと: 小栗が権田村で具体的な武装反乱を準備していたことや、個人による独断で処刑が決まったこと。
この区別を曖昧にすると、小栗が実際に何をした人物なのかが見えなくなってしまいます。
功績が大きかったから処刑が不当だと自動的に決まるわけではありません。
しかし、政治的な敵対者だったというだけで、反乱の嫌疑が証明されたことにもならないのです。
この二つを分けて考える姿勢こそ、歴史を理解するうえで大切だと思います。
「逆賊」は当時の正式な呼称だったのか?
『逆賊の幕臣』というタイトルを理解するには、「逆賊」という言葉そのものを考える必要があります。
逆賊とは、一般に朝廷や国家の権威に背いた者を指す、強い政治的な非難を伴う言葉です。
幕末から明治維新にかけて、政治的な正統性をめぐる争いは、軍事行動だけでなく言葉の上でも行われました。
新政府側は朝廷の権威を背景として旧幕府勢力と対峙し、旧幕府側は徳川家に対する忠誠や政治秩序の維持を重視していました。
こうした状況では、どちらの立場に立つかによって、同じ行動の評価が大きく変わります。
ただし、小栗忠順に対して「逆賊」という名称が正式な法的身分や判決として与えられたと確認できるわけではありません。
NHK財団が運営するステラnetの番組紹介では、新政府から「逆賊」と見なされた人物として小栗が説明されています。
これは、作品が描こうとする歴史的な立場を示した表現として理解するのが適切でしょう。
ドラマのタイトルにある「逆賊」と、当時の処刑命令の具体的な文言は、分けて検討する必要があります。
僕は、この言葉に作品の大きな問いが込められていると感じます。
ある時代には忠義と考えられた行動が、政治体制の転換によって反逆と見なされることがある。
けれど、人間の一生を、勝った側の評価だけで語り尽くすことはできません。
小栗忠順の人生は、その複雑さを僕たちに問いかけています。
処刑後の首はどこへ?館林の記録と普門院の伝承
小栗忠順の最期には、処刑後の首の行方についても記録と伝承が残されています。
館林市の公式解説によれば、小栗父子の首は処刑後に館林城へ運ばれました。
岩倉具定による首実検の後、泰安寺を経て法輪寺に埋葬されたと説明されています。
その後、権田村の関係者らが首を取り戻そうとし、一度は失敗したものの、後に法輪寺から持ち出して権田村へ戻した経緯が紹介されています。
一方、埼玉県さいたま市大宮区の普門院には、小栗忠順の首塚とされる墓にまつわる伝承があります。
普門院の由緒では、小姓が処刑後の小栗の首を持ち帰り、寺に託したという話が伝えられています。
しかし、普門院が公開する「普門院と小栗家」では、上野介忠順の墓が実際に首塚であるかどうかについて、史料による確証はないと説明されています。
したがって、館林市が紹介する経緯と普門院の伝承を、矛盾なくつながる一つの史実として断定することはできません。
この違いは、歴史解説では隠すべきではない部分です。
館林市の紹介する地域史、普門院に残る伝承、それぞれの資料がどのような根拠に基づくのかを区別して読む必要があります。
僕は、伝承そのものにも大切な意味があると思っています。
事実として確定できない部分があっても、地域の人々が小栗の最期を忘れず、後世に伝えようとしてきたことは分かるからです。
歴史には、公的な記録に残された出来事と、人々の記憶のなかで守られてきた物語があります。
その違いを理解することで、一人の人物の最期が、より立体的に見えてくるのではないでしょうか。
『逆賊の幕臣』最新キャストは?10月9日発表の4名と主要人物
2026年10月9日、NHK大河ドラマ『逆賊の幕臣』に、中村倫也、寛一郎、斎藤工、西岡德馬の出演が新たに発表されました。
それぞれ吉田松陰、高杉晋作、島津久光、島津斉彬を演じます。
今回の発表によって、主人公・小栗忠順を中心とする幕府側だけでなく、長州や薩摩の政治的な動きも描かれることが明確になりました。
10月9日発表の追加キャスト4名
NHK財団が運営するステラnetは、2026年10月9日付の記事で4名の出演者と役柄を紹介しています。
俳優 役名 役どころ
中村倫也 吉田松陰 長州の思想家。安積艮斎の塾で小栗らと議論する
寛一郎 高杉晋作 吉田松陰に学び、後に奇兵隊を組織する長州藩士
斎藤工 島津久光 薩摩の政治を主導し、幕政改革に関わる人物
西岡德馬 島津斉彬 西洋技術の導入を重視した薩摩藩主
今回の発表で注目したいのは、単に倒幕側の人物が追加されたということではありません。
小栗と接点を持つ人物、幕府改革を求めた人物、異なる形で日本の近代化を構想した人物がそろったことです。
幕末の政治勢力は、最初から新政府側と幕府側に明確に分かれていたわけではありません。
それぞれが変化する情勢のなかで考え、行動し、政治的な立場を変えていきました。
今回の配役は、そうした複雑な時代の流れを描くための重要な布石だと感じます。
吉田松陰役・中村倫也と高杉晋作役・寛一郎
中村倫也が演じる吉田松陰は、長州藩出身の思想家です。
松下村塾で若者を育て、幕末の志士たちに大きな影響を与えた人物として知られています。
番組の人物紹介では、松陰が江戸で安積艮斎らに学び、小栗らと開国について議論を交わす設定が示されています。
安積艮斎を演じるのは中村雅俊です。
ここで興味深いのは、後に政治的な立場を異にする人物たちが、学問を通じて接点を持つ構成になっていることです。
ただし、実在の人物が同じ学問の世界に関わっていたことと、ドラマに描かれる具体的な会話がすべて史実であることは別です。
劇中での議論の内容や人物同士の感情については、脚本上の再構成も含まれると考える必要があります。
一方、寛一郎が演じる高杉晋作は、吉田松陰に学んだ長州藩士です。
番組の紹介では、高杉も安積艮斎の塾を訪れ、小栗と出会う人物として描かれます。
さらに、高杉が師である松陰を救おうとする過程で、小栗を頼りにする展開も紹介されています。
ここには、後世の政治的な対立だけでは見えてこない人間関係があります。
幕府の人間と長州の人間が、最初から敵として向き合っていたわけではない。
同じ時代に学び、議論し、時には相手の力を必要とした可能性を描くことは、歴史ドラマならではの魅力でしょう。
僕は、中村倫也が演じる松陰の思想的な情熱と、寛一郎が演じる高杉の行動力が、小栗の合理的な政策判断とどうぶつかるのかに注目しています。
異なる考え方を持つ人物が対話する場面は、時に戦闘場面以上の緊張感を生むからです。
島津久光役・斎藤工と島津斉彬役・西岡德馬
斎藤工が演じる島津久光は、薩摩藩主・島津斉彬の異母弟です。
斉彬の死後、薩摩藩の政治に大きな影響力を持つようになりました。
1862年には兵を率いて上洛し、朝廷の権威を背景に幕府へ政治改革を求めます。
ここで注意したいのは、久光を最初から一貫した倒幕派と決めつけないことです。
当時は幕府を立て直す構想や、朝廷と幕府を協調させようとする構想も存在していました。
久光の政治行動は、こうした複雑な情勢のなかで理解する必要があります。
一方、西岡德馬が演じる島津斉彬は、薩摩藩の第11代藩主です。
西洋の技術や軍事力に関心を持ち、産業の育成にも取り組んだ人物として知られています。
小栗忠順と島津斉彬は、所属する政治的な立場こそ違いますが、日本が外国の技術を取り入れる必要性を認識していたという点では共通する部分があります。
僕は、この共通点がドラマでどう表現されるのかを楽しみにしています。
明治維新を語るとき、幕府側は古い制度を守る存在、薩摩・長州は新しい制度を築く存在と単純化されがちです。
しかし実際には、幕府の内部にも、西国の有力藩にも、改革を考える人々がいました。
新しい時代を望む気持ちが共通していても、誰が政治を担うべきかという考え方は異なります。
その違いが積み重なった先に、明治維新という大きな転換がありました。

勝海舟・小栗家・朝廷側の主要キャスト
『逆賊の幕臣』では、2026年10月9日までに主人公の家族、幕府の関係者、朝廷側など多くの出演者が発表されています。
特に重要な人物を整理しました。
登場人物 俳優 主人公との関係・立場
小栗忠順 松坂桃李 主人公・幕府の改革を推進
勝海舟 大沢たかお 幕府の重要人物・小栗のライバル
小栗忠高 北村有起哉 小栗忠順の父
小栗くに 鈴木京香 小栗忠順の母
小栗みち 上白石萌音 小栗忠順の妻
小栗忠道 齋藤潤 小栗家の養嗣子
勝たみ 瀧内公美 勝海舟の妻
安積艮斎 中村雅俊 儒学者・小栗らに関わる人物
栗本鋤雲 青木崇高 幕府側の知識人・外交関係者
井伊直弼 岡部たかし 幕政を主導した大老
孝明天皇 眞栄田郷敦 幕末の朝廷を象徴する人物
明治天皇 奥野壮 新しい時代の皇室を担う人物
岩倉具視 山中崇 朝廷政治に関わる人物
鷹司政通 長塚京三 朝廷の有力公卿
2026年8月28日には、瀧内公美、齋藤潤、飯尾和樹、草川拓弥、ANI、甲本雅裕の出演が発表されました。
続いて9月15日には、眞栄田郷敦、奥野壮、山中崇、長塚京三の4名が朝廷側の人物を演じることが明らかになっています。
これらの配役を見ると、物語は小栗一人の仕事や政治的な対立だけでは完結しないことが分かります。
家族、同僚、将軍家、朝廷、薩摩、長州。
小栗を取り巻く関係が広がることで、政治的な決断が本人だけでなく、多くの人々の人生に影響していく様子も描かれるのではないでしょうか。
特に僕が気になるのは、上白石萌音が演じる妻・みちと、齋藤潤が演じる忠道の存在です。
史実では小栗の処刑だけでなく、養嗣子の忠道も命を落としています。
政治の大きな変化が、家族にとってどのような出来事だったのか。
この視点を丁寧に描くことができれば、小栗の悲劇は歴史上の事件というだけでなく、一つの家族の物語としても胸に迫るものになると思います。
『逆賊の幕臣』は2027年1月10日放送開始
『逆賊の幕臣』の放送開始予定日は、2027年1月10日(日)です。
2026年10月10日時点で案内されている主な番組情報は次のとおりです。
- 作品名:『逆賊の幕臣』
- 放送開始:2027年1月10日(日)予定
- 放送局:NHK総合ほか
- 基本放送枠:毎週日曜午後8時〜午後8時45分
- 主演:松坂桃李
- 脚本:安達奈緒子
- 大河ドラマ:第66作
- 主人公:小栗忠順
2026年10月10日現在、ドラマは放送開始前です。
そのため、各話の具体的な内容、史実のどの出来事を何話で描くのか、最終回をどのように構成するのかは、今後の発表や本編の放送を確認する必要があります。
番組の放送時間や配信内容についても、変更される可能性があります。
視聴前にはNHKの正式な番組案内を確認することをおすすめします。
『逆賊の幕臣』はどこまで史実?勝海舟との違いとドラマの考察
『逆賊の幕臣』は実在する小栗忠順の生涯を基にした歴史ドラマですが、人物同士の具体的な会話や心情まで、すべてが史実として確認されているわけではありません。
僕が本作で最も注目したいのは、小栗が「なぜ敗れたか」だけでなく、「何を残したか」をどう描くのかという点です。
その意味を考えるために、勝海舟との政治判断の違いと、過去の大河ドラマにおける小栗の描かれ方を比較してみます。
小栗忠順と勝海舟の違いは何だったのか?
小栗忠順と勝海舟は、ともに江戸幕府に仕え、日本の近代化に関わった人物です。
しかし、1868年に幕府の存続が危ぶまれたとき、二人の政治的な判断は異なりました。
小栗は新政府軍への抗戦を主張しました。
一方、勝海舟は江戸での大規模な戦闘を回避するため、西郷隆盛との交渉などを進め、江戸城の無血開城に関わります。
ここで二人を比較すると、対照的な選択が見えてきます。
小栗は、幕府に残された軍事力や政治的な可能性を踏まえ、抵抗する道を重視しました。
勝は、戦闘による被害を避け、徳川家の存続条件を確保する道を選びました。
もちろん、二人の立場をこの二つの判断だけで説明し尽くすことはできません。
それまでの経歴も、政治的な関係も、置かれた状況も異なっていたからです。
ただ、ドラマの構造として考えたとき、この違いは非常に大きな意味を持ちます。
同じ幕府に仕え、同じ国の未来を考えながら、最後には別々の判断をした二人。
どちらか一方を正義、もう一方を悪として描くよりも、それぞれが何を守ろうとしたのかに焦点を当てる方が、人間ドラマとして深くなると思います。
勝の判断は、結果として江戸での大規模な戦闘を回避することにつながりました。
しかし、小栗の抗戦論についても、当時の不確実な状況を踏まえて検討する必要があります。
後の結末を知っている僕たちは、つい成功した選択を最初から正解だったと考えてしまいます。
けれど、人生の分かれ道では、どちらが正しいかを選ぶ前に、どちらの危険を引き受けるかを決めなければならないこともあります。
小栗と勝の関係には、そんな選択の難しさが凝縮されているように感じます。
『青天を衝け』の小栗忠順と何が違う?
小栗忠順は、2021年のNHK大河ドラマ『青天を衝け』にも登場しました。
この作品で小栗を演じたのは武田真治です。
『青天を衝け』の主人公は、吉沢亮が演じた渋沢栄一でした。
そのため、幕末の政治や経済の動きは、渋沢の人生を中心に描かれています。
小栗は幕府の中枢にいる重要人物の一人であり、主人公が生きた時代の政治的な背景を形づくる役割も担っていました。
一方、2027年の『逆賊の幕臣』では、その小栗自身が物語の中心になります。
この違いは、単に出演場面が増えるということではありません。
歴史を説明するために登場する人物から、その人物自身の選択を追う主人公へと、物語上の役割が変わるのです。
『青天を衝け』では、渋沢栄一の人生を通して幕末から明治へと進む社会の変化が描かれました。
『逆賊の幕臣』では、幕府の行政を担った小栗が、近代化政策を進めながら、政治体制の崩壊へ向き合う過程が中心になると考えられます。
ここで脚本上の焦点になり得るのは、政策を決断するまでの迷いや、組織の内部で生じる対立です。
横須賀製鉄所の建設を進めるとき、小栗は何を優先するのか。
外国の技術に頼らざるを得ない現実と、国内の産業を育てたい思いをどう折り合わせるのか。
財政難の幕府で、新しい事業の必要性をどう説明するのか。
こうした課題は、歴史上の成果だけを紹介する場面では、十分に描き切れないかもしれません。
僕は、『逆賊の幕臣』が小栗を主人公にすることで、政策の結果だけでなく、その結果に至る葛藤を描く余地が広がると考えています。
ただし、具体的な演出や各話の描写については、本編の放送前に断定することはできません。
この比較は、あくまで主人公の視点が変わることによって生まれる物語上の可能性です。
史実とドラマの脚色をどう見分ける?
歴史ドラマを観るとき、すべての場面を史実として受け取らないことが大切です。
小栗忠順の生涯については、遣米使節への参加、横須賀製鉄所建設への関与、幕府の役職、1868年の処刑など、記録から確認できる出来事があります。
一方、人物同士の具体的な会話や、決断する瞬間の感情については、当時の記録だけでは分からない部分も少なくありません。
たとえば、ドラマで小栗と吉田松陰が議論する場面が描かれたとしても、その言葉をそのまま歴史上の発言と考えることはできません。
また、処刑前に小栗がどのような思いを抱いたのかも、脚本家の解釈が大きく関わる部分になるでしょう。
ここで僕が大切にしたいのは、史実と創作を対立させないことです。
史実は、実際に何が起きたのかを知るための基盤です。
創作は、その事実の間にある人間の感情や葛藤を描くための表現です。
もちろん、史実に反する描写があれば、その違いを確認することには意味があります。
しかし、記録に残されていない心理を描いたからといって、すぐに作品の価値が失われるわけではありません。
大切なのは、どこまでが記録で確認でき、どこからが物語としての解釈なのかを、視聴者自身も理解することだと思います。
『逆賊の幕臣』が描く近代化のもう一つの物語
僕が『逆賊の幕臣』に期待するのは、小栗忠順の名誉を単純に回復する物語ではありません。
彼が残した仕事と、その時代に下した判断を、別々の角度から描いてくれることです。
横須賀製鉄所の建設が進められたのは、徳川幕府が存続していた時代でした。
しかし、施設が完成へ向かう過程で幕府は崩壊し、小栗自身も処刑されました。
そして1871年、第1号ドックが完成します。
その時点で、建設を推進した小栗はもうこの世にいません。
ここには、一人の人物の政治的な運命と、その人物が関わった事業の運命が、別々の道をたどったという事実があります。
僕は、この対比こそが作品を理解する重要な鍵だと思っています。
政治の世界では、誰が権力を握るかによって、人間の評価が変わることがあります。
しかし、造船施設や技術は、その人物がどちらの政治勢力に属していたかだけで価値が決まるものではありません。
実際に船を造り、修理できるか。
そこで人材を育て、次の仕事に活用できるか。
産業基盤の価値は、そうした具体的な働きによって判断されます。
明治政府が横須賀製鉄所の建設を継続した事実は、その違いを考えるための重要な材料です。
一方、小栗の近代化政策が有益だったことと、抗戦論が軍事的に妥当だったかどうかは別問題です。
もし戦闘が続いていたら、どの程度の被害が生じたのか。
幕府が抵抗を続けた場合、国際情勢はどう変わったのか。
そうした反事実的な問いには、確実な答えを出すことはできません。
だからこそ、小栗を完璧な先見者として描くのではなく、合理的な政策を進めながらも、難しい判断を迫られた一人の人間として描くことに意味があると思います。
失敗のなかった英雄よりも、間違える可能性を抱えながら決断した人間の方が、僕たち自身の人生に近いからです。

横須賀と高崎に残る小栗忠順の二つの足跡
小栗忠順の人生を知るうえで、神奈川県横須賀市と群馬県高崎市は重要な場所です。
横須賀には、彼が建設を推進した製鉄所の歴史があります。
一方、高崎市倉渕町の権田地区には、幕府の役職を失った小栗が退き、最後の日々を過ごした歴史が残っています。
横須賀市では、現在も小栗とヴェルニーの功績が顕彰されています。
また、高崎市の権田地区には小栗にゆかりのある東善寺があり、その生涯や最期を知る手がかりとなっています。
この二つの地域を重ねて考えると、小栗の人生はさらに立体的に見えてきます。
横須賀は、未来へ残された仕事を象徴する場所です。
高崎は、その未来を見届けられなかった人物の最期を伝える場所です。
2027年の大河ドラマ放送を機に、こうした歴史への関心が高まることも考えられます。
ただし、関連施設の開設や展示内容、観光事業などについては、正式に決定した情報と構想段階の話を区別する必要があります。
僕がこの二つの土地を思うとき、歴史は年表のなかだけに存在しているわけではないと感じます。
建物の跡や墓所、地域に残された記録には、その土地で生きた人間の時間が刻まれています。
『逆賊の幕臣』を通して小栗忠順を知った人が、横須賀と高崎の歴史にも関心を向けるようになれば、このドラマの意味はさらに広がるのではないでしょうか。
『逆賊の幕臣』のモデル・小栗忠順の史実まとめ
2027年NHK大河ドラマ『逆賊の幕臣』の主人公は、江戸幕府の旗本として活躍した実在の人物・小栗忠順です。
1827年に生まれた小栗は、1860年に遣米使節としてアメリカへ渡航しました。
帰国後は勘定奉行などを歴任し、幕府の財政、外交、軍事改革に関わります。
特に重要な功績が、1865年11月15日に起工した横須賀製鉄所の建設推進です。
フランス人技師ヴェルニーらの協力によって建設が進み、幕府の崩壊後も事業は明治政府へ引き継がれました。
一方、小栗は1868年の戊辰戦争で抗戦を主張し、役職を罷免されます。
その後、上州権田村に退きましたが、新政府側から不穏な行動を疑われ、旧暦の慶応4年閏4月6日、西暦1868年5月27日に処刑されました。
ただし、実際に権田村で反乱を計画していたと断定できるわけではありません。
また、「逆賊」はドラマのタイトルに使われる歴史的・政治的な評価を表す言葉であり、正式な法的認定が確認されたという意味ではない点にも注意が必要です。
2026年10月9日には、吉田松陰役の中村倫也、高杉晋作役の寛一郎、島津久光役の斎藤工、島津斉彬役の西岡德馬の出演が発表されました。
主演の松坂桃李と勝海舟役の大沢たかおを中心に、幕府、薩摩、長州、朝廷など、異なる立場から幕末を描く物語が期待されます。
僕がこのドラマで見届けたいのは、小栗忠順が勝ったか負けたかという結果だけではありません。
彼が何を考え、何をつくろうとし、どのような未来を次の時代へ残したのかということです。
人は時代に敗れても、その人が残した仕事まで失われるとは限らない。
小栗忠順の生涯は、その事実を静かに教えてくれます。
よくある質問
『逆賊の幕臣』のモデル・小栗忠順は実在した人物?
はい。小栗忠順は1827年に生まれ、1868年5月27日に亡くなった実在の幕臣です。
「小栗上野介」とも呼ばれ、遣米使節への参加、横須賀製鉄所の建設推進、財政・軍制改革などで知られています。
2027年のNHK大河ドラマでは松坂桃李が演じます。
小栗忠順はなぜ処刑されたのですか?
小栗忠順は1868年に新政府軍への抗戦を主張して罷免され、その後、上州権田村へ退きました。
しかし、屋敷の建設などを東山道総督府から不穏な行動と判断され、高崎藩に逮捕命令が出されました。
小栗は1868年5月27日に処刑されていますが、具体的な武装反乱を準備していたことまで確定した史実として扱うことはできません。
『逆賊の幕臣』はいつから放送?主演と新キャストは?
『逆賊の幕臣』は、2027年1月10日(日)からNHK総合ほかで放送開始予定です。
主演は松坂桃李、脚本は安達奈緒子。勝海舟役に大沢たかおが出演します。
2026年10月9日には、中村倫也、寛一郎、斎藤工、西岡德馬の4名が追加発表されました。
放送日時や配信情報については、今後のNHKの正式発表をご確認ください。
歴史は、勝った側の記録だけで完成するものではありません。
小栗忠順が進めた横須賀製鉄所の建設は、彼の死後も続けられました。
その事実は、政治的な勝敗と、仕事が残す価値が必ずしも同じではないことを示しています。
だからこそ僕は、2027年の『逆賊の幕臣』が、単なる悲劇の英雄譚ではなく、時代の変化の中でもがいた一人の人間の物語になることを期待しています。
彼が見届けられなかった未来を、僕たちは今、生きているのです。
ドラマ見届け人・湊の部屋
岸本 湊人
執筆方針: 歴史ドラマの人物描写を、確認できる史実と脚本上の解釈に分けて考察しています。本記事では国立国会図書館の「近代日本人の肖像」、横須賀市の「横須賀の誇り!横須賀製鉄所(造船所)」、館林市が2026年5月28日に更新した「小栗上野介忠順と館林」、普門院の「普門院と小栗家」、NHK財団運営のステラnetが2026年10月9日に公開した出演者発表などを照合しました。史料で確定できない点については、伝承や筆者の解釈と区別して記述しています。
参考
- 逆賊の幕臣 – Wikipedia
- 小栗上野介の最後 – 大成山 普門院 – 埼玉県さいたま市大宮区で創立600年の曹洞宗のお寺
- どちらも横浜流星が活躍したのになぜ…?大ヒット『国宝』と、大河歴代ワースト2視聴率『べらぼう』の明暗を分けたもの
- 武田真治|人物|NHKアーカイブス
- 2027年大河ドラマ「逆賊の幕臣」新たな出演者発表 第8弾!【薩摩・長州の人々】
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