ジョン万次郎は、アメリカで得た英語・航海・測量の知識を日本で実務と教育に生かした人です。
「ペリーの通訳として日本を開国させた人」ではありません。14歳の漂流から始まった人生を追うと、その功績は「学ぶ・使う・伝える」という3つの流れで整理できます。
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ジョン万次郎は何した人?3つの功績を先に整理
ジョン万次郎こと中浜万次郎の功績は、①海外の実用知識を持ち帰った、②幕府などの実務で生かした、③教育によって次世代へ伝えたという3つに整理すると理解しやすくなります。
国立国会図書館も中浜万次郎を「漂流民、通訳、教育者」と位置づけています。1827年1月27日に生まれ、1898年11月12日に71歳で亡くなりました。
3つの功績 具体的に何をした?
功績1:学ぶ アメリカで英語、数学、測量、航海、造船などを学んだ
功績2:使う 幕府の翻訳・航海・造船・捕鯨・通訳、小笠原調査などで経験を生かした
功績3:伝える 土佐藩、薩摩藩、明治政府の教育機関などで知識を教えた
この3つを結びつける出発点が、1841年の遭難でした。
土佐清水市の年表によると、万次郎は14歳で漁に出た際に漂流し、鳥島で143日間を過ごした後、アメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号に救助されています。その後、ホイットフィールド船長の保護を受け、アメリカへ渡りました。
その後の主な流れを、まず短く確認しておきましょう。
- 1827年:土佐国中浜村、現在の高知県土佐清水市に生まれる
- 1841年:14歳で遭難し鳥島へ漂着、143日後に救助される
- 1843年ごろ:マサチューセッツ州フェアヘーブンで学び始める
- 1851年:漂流仲間2人と琉球へ上陸
- 1852年:土佐へ帰郷
- 1853年:幕府に召し出され、「中浜」の姓を名乗る
- 1860年:咸臨丸に通弁方として乗船しサンフランシスコへ渡る
- 1862年:幕府の小笠原諸島調査に通訳として参加
- 1860年代以降:薩摩藩や明治政府の教育機関で教育に携わる
- 1898年:71歳で死去
ここで重要なのは、万次郎一人が日本を開国させたわけではないという点です。
ペリー来航時の正式な交渉通訳や、日米条約の締結・批准を担った外交官とは役割が異なります。
万次郎の価値は、自ら海外社会の中で暮らして得た知識を日本へ持ち帰り、それを幕末の現場で使える形に変えたことにありました。

功績1:ジョン万次郎は海外の実用知識を日本へ持ち帰った
1つ目の功績は、アメリカで英語だけでなく、航海や測量、造船などの実用的な知識を身につけ、それを日本へ持ち帰ったことです。
その出発点は、自分から望んだ留学ではなく遭難でした。
1841年、14歳の万次郎は仲間4人と漁に出ますが、しけに遭って漂流します。土佐清水市の資料では、10日ほどの漂流の後に鳥島へ着き、143日間を過ごしたとされています。
島には、定期船も通信手段もありません。
そこへ現れたのがアメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号でした。船長ウィリアム・H・ホイットフィールドは5人を救助し、ハワイへ連れていきます。
仲間たちがハワイに残る一方、万次郎は船長と航海を続け、やがてマサチューセッツ州フェアヘーブンで暮らすようになります。
江戸時代の日本は海外との交流を大きく制限していましたが、まったく外国との接触がなかったわけではありません。長崎などを通じてオランダや中国などとの限定的な交易・交流は続いていました。
それでも、土佐の漁師の少年がアメリカ社会で生活し、学校教育を受けるという経験はきわめて特殊でした。
万次郎がフェアヘーブンで学んだのは、英語だけではありません。
土佐清水市の年表には、英語、数学、測量、航海、造船などを学んだと記されています。
この点は「ジョン万次郎=英語を覚えた人」という説明では十分に伝わりません。
測量は、海や陸地の位置や距離を把握する技術です。
航海術は、船の現在位置や進路を考え、安全に目的地へ向かうために必要になります。
造船の知識は、大海原を渡る西洋式の船がどのような構造で成り立っているのかを理解することにつながります。
つまり万次郎が身につけていたのは、言葉と技術が一体になった「海を越えて移動するための知識」でした。

そして、万次郎は学校で覚えただけでは終わりませんでした。
1846年には捕鯨船フランクリン号に航海士として乗り、大西洋、喜望峰、インド洋などを巡る航海を経験しています。
土佐清水市の年表では、1848年7月に「一等航海士副船長」と記されています。ただし歴史資料では役職名の日本語表現に揺れが生じることがあるため、ここでは自治体年表上の表記として理解しておくのが安全でしょう。
14歳のときには、自分がどこへ流されているのかも分からなかった少年です。
それが数年後には、船を動かす側の知識と経験を持っていました。
さらに万次郎は、日本へ戻るための資金も自ら準備します。
土佐清水市によると、カリフォルニアのゴールドラッシュ期に働いて600ドルを得た後、漂流仲間のいるハワイへ向かいました。
1851年、仲間2人とともに琉球へ上陸します。
琉球、薩摩、長崎での取り調べを経て、1852年にようやく土佐へ帰郷しました。国立国会図書館も、1851年に琉球へ戻り、取り調べの後に1852年に土佐へ帰った経緯を紹介しています。
この段階で、功績1の「学ぶ」が成立します。
万次郎は外国語だけでなく、外国の学校、家庭、港、捕鯨船という複数の現場を実体験していました。
そのため彼が日本へ持ち帰ったのは教科書の知識だけではなく、西洋社会で実際に使われていた知識と経験だったのです。
功績2:幕府・咸臨丸・小笠原の実務で知識を生かした
2つ目の功績は、海外で学んだことを幕末日本の実務へ生かしたことです。
1853年、ペリー率いるアメリカ艦隊が来航すると、海外経験を持つ万次郎は幕府から召し出されました。国立国会図書館によると、このとき「中浜」の姓を授けられ、幕府に仕えることになります。
ただし、ここには非常に有名な誤解があります。
ジョン万次郎は、ペリーとの正式な交渉通訳を務めた人物ではありません。
国立公文書館によると、1853年のペリー初来航時に日本側で通訳を担ったのはオランダ通詞の堀達之助でした。
1854年の再来航と日米和親条約の交渉では森山栄之助が通訳を務めています。同時期、万次郎も幕府のために英文翻訳などを担当していましたが、ペリーとの正式交渉の通訳者として整理するのは正確ではありません。
この違いは、万次郎の評価を下げるものではありません。
むしろ当時の外交を正確に見ると、彼ならではの役割がはっきりします。
幕府にはすでに長崎のオランダ通詞を中心とする外国語専門家の蓄積がありました。1808年のフェートン号事件以降には英語学習も進められ、ペリー来航時にも堀達之助や森山栄之助らが外交実務を担っています。
一方、万次郎はその系統とは異なります。
日本国内で外国語を学んだのではなく、アメリカ社会で暮らし、学校に通い、捕鯨船で航海して英語と技術を身につけました。
だから幕府にとって価値があったのは、単なる英単語の知識ではありません。
「アメリカ人はどのように話し、暮らし、船を動かし、海を渡るのか」を体験として知っていることでした。
土佐清水市の年表では、1855年以降の万次郎について、航海学関係の書物をまとめたこと、西洋型帆船の建造に直接指導で関わったこと、1857年に軍艦関係の教授職を務めたこと、同年に捕鯨術教授のため箱館へ向かったことなどが記されています。
これらの記述は関与範囲や役職名の表現に資料差が生じやすい部分ですが、少なくとも万次郎の仕事が「英語通訳だけ」に限定されていなかったことは読み取れます。
航海、船舶、捕鯨、翻訳。
海で生きてきた経験が、そのまま幕府の必要とする実務につながっていったのです。
咸臨丸では「通弁方」として渡米
その代表例が1860年の咸臨丸です。
日米修好通商条約の批准書交換のため、幕府は正使・新見正興、副使・村垣範正、監察・小栗忠順らをアメリカへ派遣しました。
正式な使節団の中心はアメリカ軍艦ポーハタン号に乗船し、咸臨丸は護衛・随行する役割でサンフランシスコへ向かっています。国立国会図書館は、咸臨丸の乗員として勝海舟を船将、中浜万次郎を通弁方、福沢諭吉を随員と紹介しています。
外務省によると、咸臨丸は1860年2月10日、旧暦の安政7年1月19日に浦賀を出航しました。
3月17日にサンフランシスコへ到着し、帰路を経て6月23日に浦賀へ戻っています。
ただし、「日本人だけで初めて太平洋を横断した」と説明するのも正確ではありません。
外務省は、咸臨丸がアメリカ人水夫の助けを得ながら航海したことを明記しています。

私は、この航海を万次郎の人生で非常に象徴的な場面だと感じます。
1841年には、彼はアメリカ船に救助される側として太平洋を渡りました。
それから約19年後には、幕府の船に通訳として乗り、日本側の仕事を担いながらアメリカへ向かっています。
同じ太平洋でも立場が変わっています。
ただし、それを「万次郎一人の力で成し遂げた」と英雄物語にしてしまえば、咸臨丸に乗った日本人やアメリカ人乗組員、さらにポーハタン号でワシントンへ向かった正式使節団の役割が見えなくなります。
史実に即して見るなら、万次郎は多くの専門家が動く外交・航海の現場で、自分にしかない海外経験を提供した一人だったと考えるのが適切でしょう。
小笠原では外国人住民との通訳を担当
もう一つ、功績2を具体的に示すのが小笠原諸島です。
国立公文書館によると、文久元年12月4日、現在の暦では1862年1月4日、外国奉行の水野忠徳以下100人余りが咸臨丸で品川沖を出航しました。
その一行に、中浜万次郎は通訳として参加しています。
咸臨丸は父島へ入り、幕府側は現地に暮らす外国人住民と会談し、調査や測量を行いました。
国立公文書館に残る『小笠原島日記』には、中浜万次郎が島民との対話で通訳を務めたことが記録されています。
この場面を考えると、「万次郎は英語が話せた」という一言だけでは足りません。
外国人住民の言葉を理解する。
幕府側が知りたいことを把握する。
異なる社会で育った人同士の意思をつなぐ。
必要なのは、語彙だけではありません。
アメリカ社会の中で暮らした経験そのものが、通訳の背景にあったはずです。
さらに国立公文書館の資料では、万次郎らが関わった小笠原近海での洋式捕鯨にも触れられています。
ここまでを見ると、功績2の「使う」の意味が見えてきます。
万次郎は持ち帰った知識を自分の経歴として抱えていただけではなく、航海、通訳、船舶、捕鯨、調査という具体的な仕事へ接続していたのです。
功績3:英語・航海・測量を教育で次世代へ伝えた
3つ目の功績は、自分が得た知識を次世代へ渡したことです。
この視点を入れると、ジョン万次郎は「漂流してアメリカへ行った珍しい人」から「知識を日本社会へ広げた教育者」へと見え方が変わります。
国立国会図書館も万次郎の職業・身分として「教育家」を掲げ、幕末から明治にかけて教育に携わった人物として紹介しています。
土佐清水市の年表では、帰郷後の1852年に土佐藩の士分となり、高知城下の藩校・教授館で教えたとされています。
さらに1866年の項では、薩摩藩の開成所で航海、造船、測量、英語を教授したことが記されています。
明治に入ってからも教育との関係は続きます。
土佐清水市年表では、1869年に明治政府の開成学校で徴士(二等教授)となり、翌1870年には中博士(教授)となったと整理されています。
学校制度が大きく組み替えられていく時期のため、資料によって「開成所」「開成学校」などの表記が出てくる点には注意が必要です。
国立国会図書館は、万次郎が開成所、後の東京大学につながる教育機関で教授を務めた人物として紹介しています。

教育という点でもう一つ興味深いのが、『英米対話捷径』です。
国立国会図書館サーチには、中浜万次郎による『英米對話捷徑』が登録されており、連携先資料の解説では、英語圏で実地に教育を受けた万次郎による英会話入門書として位置づけられています。
ここに万次郎らしさがよく表れています。
知っているだけではなく、ほかの日本人が利用できる形へ整える。
航海経験も同じです。
自分が船を動かせるだけで終わるのではなく、航海や測量を教える。
外国人と自分だけが話せればよいのではなく、英語を学ぶための材料を残す。
「自分の経験を再現可能な知識へ変える」ことが教育です。
この意味で、功績3は功績1、功績2とは別の広がりを持っています。
一人の人間が持てる知識には限界があります。
しかし教えることで、その知識は本人の手を離れ、別の人の仕事や学びへ受け継がれていきます。
万次郎の生涯を「学ぶ→使う→伝える」と整理できるのは、この教育者としての仕事まで続いているからです。
なぜジョン万次郎は重要?「文化と技術の翻訳者」だった
ここからは、確認できる史実を踏まえた私自身の考察です。
私は、ジョン万次郎の重要性を「英語ができたから」だけで説明するのはもったいないと考えています。
幕末には、外国語を扱える専門家が万次郎以外にもいました。
実際、ペリー来航時には堀達之助や森山栄之助らオランダ通詞が外交の現場で重要な役割を果たしています。日本の英語学習も万次郎から突然始まったわけではなく、19世紀初頭からオランダ通詞たちによる取り組みが積み重ねられていました。
では、万次郎の何が異なっていたのでしょうか。
大きいのは、知識を得た環境だと私は考えます。
長崎の通詞たちは日本国内で外交と外国語を専門的に学んでいました。
対して万次郎は、偶然の漂流によって海外へ渡り、アメリカ人の家庭で暮らし、学校教育を受け、外国船に乗って世界の海を航海しました。
つまり、語学力の優劣という単純な比較ではありません。
持っている海外情報の質が違ったのです。
万次郎はアメリカを本の中で知ったのではなく、生活者と船乗りの両方の立場で体験していました。
だからこそ幕府が海外へ向き合わざるを得なくなった1850年代、その経験には実務的な意味が生まれます。
航海の話なら船員として説明できる。
測量の話なら学んだ技術を前提に話せる。
外国人との対話では、言葉だけでなく相手側の生活感覚も知っている。
こうして史実を並べてみると、私は万次郎を単なる「通訳者」より、文化と技術の翻訳者と表現するほうが実像に近いと感じます。
ここでいう「翻訳」は、英語を日本語へ置き換えることだけではありません。
アメリカで身につけた航海技術を日本人が使える形にする。
測量の知識を教える。
外国船や捕鯨の経験を幕府の仕事へつなげる。
小笠原で外国人住民と幕府側との間に立つ。
『英米対話捷径』のように語学学習の形へ残す。
この3つの功績を具体例に置き換えると、
功績1=海外で得た技術や生活知を日本へ持ち帰る。
功績2=幕府や航海の現場で、それを実際に使う。
功績3=教育や書物を通して、ほかの人へ渡す。
という構造になります。
これが「学ぶ→使う→伝える」という流れです。
一方、「万次郎が日本を開国させた」という説明は避けるべきでしょう。
1858年の日米修好通商条約を締結したのも、1860年に批准書を交換したのも万次郎一人ではありません。
1860年の批准書交換では、正使・新見正興、副使・村垣範正、監察の小栗忠順らが正式使節としてワシントンへ赴きました。外務省が紹介する批准書交換証書にも新見、村垣、小栗らの署名が確認できます。
歴史は、一人の「英雄」がすべてを動かしたと考えるほど単純ではありません。
だからこそ、私は万次郎を大きく見せるために、堀達之助や森山栄之助、遣米使節団など他の人々の功績まで万次郎のものにする必要はないと思います。
役割をきちんと分けたほうが、むしろ万次郎固有の珍しさが浮かびます。
土佐の漁師の少年でありながら、アメリカの家庭生活を知っている。
日本の小舟で漁をしていた一方、西洋式の捕鯨船で大洋を航海している。
日本語社会へ戻った後も、英語で外国人と意思を通わせられる。
そして、その体験を航海、測量、捕鯨、教育という別々の分野へ移し替えていく。
「二つの国を知っていたこと」より、「二つの世界の間で知識を動かせたこと」。
筆者としては、ここにジョン万次郎の功績の核心があると考えます。
その意味では、1841年の漂流は確かに偶然でした。
鳥島へ流れ着いたことも、ジョン・ハウランド号に救助されたことも本人が計画した出来事ではありません。
しかし、その後に何を学び、どこで働き、どう帰国し、得た知識をどう使うかは、一つひとつ本人の選択によって積み重なっていきました。
万次郎の生涯を「奇跡の漂流者」で終わらせてしまうと、この部分が抜け落ちます。
彼は偶然によって海外へ出た人物でしたが、その経験を社会で使える知識へ変えた人物でもありました。
まとめると、ジョン万次郎は1827年、現在の高知県土佐清水市にあたる土佐国中浜村に生まれました。
1841年に14歳で遭難し、鳥島で143日間を過ごした後、アメリカの捕鯨船に救助されます。アメリカでは英語、数学、測量、航海、造船などを学び、捕鯨船の航海士として海上経験も積みました。
1851年に琉球へ上陸し、翌1852年に土佐へ帰郷。
1853年には幕府へ召し出され、海外経験を翻訳や航海などの仕事に生かしていきます。
1860年には咸臨丸の通弁方としてサンフランシスコへ渡り、1862年には小笠原諸島調査で外国人住民との通訳を担当しました。さらに幕末から明治にかけて教育にも携わっています。
小学生にも分かるように一言で答えるなら、こうです。
ジョン万次郎は、海で遭難してアメリカへ渡り、そこで学んだ英語や航海・測量の知識を日本へ持ち帰り、幕府の仕事や教育で役立てた人です。
「日本を一人で開国させた人」ではありません。
海外の知識を学び、日本の現場で使い、次の世代へ伝えた人。
この3つの功績で捉えると、ジョン万次郎という人物が何をしたのかが、より正確に見えてきます。
よくある質問
ジョン万次郎は何をした人ですか?
アメリカで英語、数学、航海、測量、造船などを学び、その知識と海外経験を日本へ持ち帰った人物です。
帰国後は幕府の翻訳や航海などの仕事、咸臨丸での渡米、小笠原諸島調査、教育などに携わりました。
ジョン万次郎はペリーの通訳をしたのですか?
ペリーとの正式な交渉通訳を担当した人物ではありません。
国立公文書館によると、1853年の初来航時には堀達之助、1854年の再来航時には森山栄之助が日本側の通訳を務めました。万次郎は当時、幕府のために英文翻訳などを行っていました。
ジョン万次郎は日本を開国させたのですか?
万次郎一人が日本を開国させたわけではありません。
条約交渉や外交には幕府の役人、外国奉行、通詞、遣米使節など多くの人々が関わっています。万次郎は英語、海外事情、航海、測量、船舶、通訳、教育などの経験を生かし、日本が海外と本格的に向き合い始めた時代を実務面から支えた人物と考えるのがより正確です。
文:岸本湊人
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